がんばれ日本・クロアチア
私たちの夢は「日本・クロアチア両国のグループリーグ突破」です。日韓ワールドカップで芽生えた、クロアチア代表と市民との心温まる交流をぜひ多くの人から知っていただきたいと願っています。



クロアチア代表に千羽鶴を贈る活動
日韓W杯でクロアチア代表は地元小学生が勝利への願いを込めた千羽鶴を試合本番のベンチに飾ってくれました。長い歴史の中で千羽鶴をベンチに持ち込んだ国は唯一クロアチアだけです。変わらぬ友愛と健闘を願う純粋な気持ちを込めて、再び子どもたちが作った千羽鶴を贈り届けます。

2002_6_2新潟スタジアム 千羽鶴


当間高原リゾート企画
クロアチア代表が使用した当間高原リゾートは、同国のほかスペイン・ポーランドからもキャンプ申込をいただくなど、世界のサッカー関係者から高い評価を受けた一大リゾートです。ホテルでは4年前のW杯キャンプをそのまま再現し、館内装飾をはじめ選手用の特別メニュー、客室仕様など細部にわたって「クロアチア仕様」を再現・提供する「がんばれ日本・クロアチア」フェアを開催します。

当間高原リゾートベルナティオ


クロアチア現代絵画展
在日クロアチア大使館と十日町市の共催により、クロアチアを代表するアーティストが描いた、現代絵画64枚の展示を行います。■会期:7月5日(水)〜19日(水)午前9時30分〜午後5時※ただし月曜日は休館■会場:十日町情報館

クロアチア現代絵画


クロアチアピッチサポーターズクラブ
クロアチアピッチを中心として行われる交流イベント・キャンプなど、スポーツを通じての市民レベルの交流を土台とすべき事業の企画・立案から受入、実施までをサポートするボランティア組織です。活動内容は、ピッチや付帯設備の維持管理協力、キャンプ時のピッチ周辺警備・チームの移動サポートなど。現在参加者は120人。



クロアチアピッチ活用事業実行委員会
クロアチアピッチを活用するため、その施設の水準維持と事業受入を円滑に進めるにあたり必要な活動を推進することを目的とした、官民一体の実行委員会。





 ワールドカップキャンプを一過性のイベントにとどめることなく、これからまちづくり、青少年育成の起点としたい。スポーツや国際交流がもたらす無限の可能性を多くの人々から感じていただきたい。そんな思いから、2002年にクロアチア代表が新潟県十日町市で行ったキャンプの記録を記念誌『Hvala Hrvatska』(ありがとうクロアチア)にまとめました。14日間のキャンプの中でも、特に印象深かった出来事・寄稿文をご紹介します。



 「子どもたちに夢を与えたい」という願いから、十日町市は1998年に2002FIFAワールドカップTMの公認キャンプ地に立候補しました。
 十日町市は、ヨーロッパ屈指の高級リゾート地・絹織物の世界的産地として知られるイタリア・コモ市と姉妹都市(1975年〜)の関係にあることから、当初はイタリアチームの誘致を目指しましたが、結局実現することはありませんでした。
 しかし、2001年に7か国の代表団の視察を受け、9月にはスペインから「もしも、グループリーグを日本で戦う場合は、十日町市でキャンプを行いたい」という申し入れがあり、仮予約を交わすことができました。さらに2001年11月にはポーランドからも「予選を日本で行う場合は十日町市でキャンプをしたい」という連絡があり、この時点ではキャンプ実現はほぼ確定的と思われていました。
 ところが・・何という運命のいたずらでしょうか。運命の12月1日・組み合わせ抽選日、仮予約をしていたスペイン、ポーランド両国が、ともに予選を日本ではなく韓国で行うことになってしまったのです。韓国プサンの抽選会場でなりゆきを見守っていた本田欣二郎市長(当時)は、そのときの心境を「奈落の底に突き落とされたようだった」と振り返っています。ファイナルドローが終わった瞬間、十日町市の誘致活動は一気に白紙の状態に戻ってしまったのです。
 しかし、抽選会からわずか3日後の12月4日、スペイン、ポーランドの推薦もあり、クロアチアのサッカー協会関係者(マルコビッチ会長・スレブリッチ事務局長)がキャンプ地の当間高原リゾートベルナティオを初めて訪れ、グラウンドをはじめ各施設に非常に高い評価を与えてくれました。そして、2度目の視察となった12月8日にはキャンプ地の内定を得ることができたのです。
 まさに天国から地獄、地獄から天国の誘致活動でした。しかも、運がよかったことに、1回目の視察となった4日の時点では雪が積もっていなかったためにグラウンドを見てもらえましたが、8日には一面が雪に埋もれていたのです。もしも、視察が数日遅れていたならば、一番重要なグラウンドを確認できず、キャンプは実現しなかったかもしれません。まさしく天も味方したキャンプ誘致活動でした。

※クロアチア代表は、ドイツ大会に際しても本番直前の親善試合でポーランド・スペインとテストマッチを行うなど協会間の親密なつながりがうかがえます。



  ボールタッチのすべてがつぎのプレーに結びついていた。柔らかな身のこなしからのすばやいパス回し、190cm近い大男たちが目の前を疾走する。一瞬にしてディフェンダーを置き去りにする縦への突破。一本で局面を変えるスルーパス。一対一の攻防。振り抜いた足もとから矢のようにボールがネットに突き刺さる。ゴールの瞬間、客席は波を打つように静まりかえった。一呼吸をおいて拍手がわき起こる。一つひとつの技に、スタンドから漏れたのは感嘆のため息だった。
 公開練習について聞かれたミルコ・ヨジッチ監督は「選手にとって、観客の拍手は、美しいメロディのようなもの」と笑っていた。
 ある日、小学生の一団が客席にやって来た。手作りの応援ボードを高々と掲げ、「スレットノー」と声援をおくっていた。選手も子どもたちの近くをランニングし、手を振ってくれた。母国では絶対にありえない光景だという。キャンプ期間中クロアチア代表チームは9回におよぶ公開練習を行ってくれた。「世界の技」を目の当たりにした観客は3,500人以上にものぼる。彼らはボールひとつで人々をクロアチアサポーターにしてしまった。
 十日町キャンプでの最後の公開練習となった2002年6月1日には、練習終了とともに花火が打ち上がり、観客から盛大な拍手とエールが沸き上がりました。そして選手たちも、その声援に応えて、横一列に手をつなぎ、高々とその手を揚げ感謝の意を現してくれたのです。(このページのトップ写真)最後の練習が終わったとき、ヨジッチ監督は「一生忘れられないキャンプとなった。我々は十日町市民のためにも全力で戦う」という言葉を残してくれました 。


 国の違い、言葉の違い、大人と子供…。サッカーはボール一つで人々の間にあるすべての壁を手品のように消し去り、心と心を結びつけます。 

 2002年5月24日、クロアチア代表チームは子供たち150人を対象に「サッカー教室」を開いてくれました。「子供たちに夢を与えてほしい」という地元の願いをこころよく聞き入れてくれたのです。

 サッカー教室では、目の前に立つ代表選手を眩しそうにみつめる子供や、膝の下まで垂れたブカブカのビブスを着てボールを追いかける子供の姿がありました。前半の技術練習で、選手たちは身ぶりを交えながらドリブルやヘディングを指導してくれました。うまくできた子供とハイタッチを交わしたり頭をなでたりする姿があちこちで見られました。

 そして教室の後半には、誰も見たこともないような、素敵なプレゼントが子供たちに贈られました。それは、代表選手対ちびっ子150人の試合です。試合では、ペナルティエリア付近までドリブルをしていった選手が、突然ボールを手にとってパスした後にゴールを決めました。審判役のヨジッチ監督は、選手にレッドカードを与える演技をしました。さらには、ゴール前での“意図的な”ハンドから、地元の子供がブティナ選手を相手にペナルティキックを決めました。ほかにも、ドリブルをする子供を選手が後ろから高々と抱き上げてグルグルと回したり、ボールが2つ3つと増えるなど、心憎い演出が次々と繰り広げられました。最後は、トマス選手が子供からボールを奪われた際にケガを負ったフリをしました。選手みんなが救急車のサイレンの音を口まねして実際に担架まで持ち込み、ピッチの外に運び出したのです。それがサッカー教室の終わりの合図でした。ピッチの上には、国籍を越え、立場を越えてみんなの笑顔があふれていました。

 試合後にはシュケル選手のサインを求めて、100人以上の子供が行列を作りました。前大会得点王は実に30分以上をかけて子供たち一人ひとりと触れ合い、サインをし、夢を叶えてくれたのです。シュケル選手は子供の笑顔を見るたびに、自身が幼い頃に有名な選手にサインをもらった時のことを思い出すと話していました。サッカー教室の終了とともに、会場に居合わせたすべての人々から、感動の拍手が沸き起こったことはいうまでもありません。監督も直後の記者会見で「世界で一番美しいのは子供。その子供たちに幸せを与え、子供たちの笑顔を見れたことは選手にとって最上の喜びです。選手も、子供たちにサッカーを教え、ともに楽しむことができて、心洗われるひと時でした」と振り返っていました。

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夢叶う瞬間
 
ブカブカビブスVSセーリッチ選手
 

クロアチア代表VSちびっ子150人
 

大変!!トマス選手が負傷
 
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ブティナ選手とハイタッチ
 

憧れの選手と夢のひととき


 どんなに素晴らしい出会いにも、別れはやってきます。2002年6月2日、クロアチア代表が翌日のメキシコ戦に向けて旅立つ日がやってきました。別れの朝、ベルナティオ別館前で行われた壮行セレモニーには、代表を見送ろうと、市民など約300人が駆けつけました。チームを代表して、ブラトコ・マルコビッチ協会長は「市民から贈られた“どうか侍のように戦ってください”という言葉が胸に突き刺さり、一生忘れはしない。選手はクロアチアのためだけでなく、愛情をいただいた皆さんのためにも戦います。私たちは旅立ちます。しかし、この別れは本当の別れだとは思わないでほしい。ここにいる選手が将来コーチや監督になったときには、必ずや十日町に新たなチームを連れてくるでしょう。いつかまた会いましょう」という言葉を残してくれました。
 また、チームからの贈り物としてサッカーボールをかたどったガラス製の記念品が、主将のシュケル選手の手から滝沢市長に贈られました。シュケル選手は「これほどクロアチアを知ろうとした町はなく、素晴らしいキャンプだった。今度は一旅行者として遊びに来たい」と述べていました。
 最後に、市民らが「イデモ、フルバツカ!!」(がんばれクロアチア)とクロアチア語で激励する中を、一人ずつバスへと乗り込みキャンプ地ベルナティオを出発したのです。
 別れを惜しむ多くの市民とともに、ホテルのスタッフや関係者が手を取り、感動で胸をつまらせている姿が見られました。.
 そして、バスの中の選手たちも十日町市を走り抜ける際、市民らの真の友情と純粋な心に感動して目を潤ませていたといいます。道路の両脇には、クロアチア国旗を手にした親子連れ、年配の方々、沿道のお店の人たちなど数千人の市民が道路に出てきて選手に惜別と激励の気持ちを込めて手を振りました。
 バスは風のように走り抜け、夢と感動の14日間は終わりました。キャンプ誘致に名乗りを上げて以来1,098日目の出来事でした。


 

 各国のキャンプ視察から始まり、ワールドカップ終了までの間は展開が日々変わる、とても目まぐるしい1年でした。私は選手の滞在する「当間高原リゾート ベルナティオ」のキャンプ責任者としてキャンプ中は選手たちと毎日寝起きを共にしてきました。おかげで5kgのダイエットに成功しました。
 クロアチアのキャンプが決定し、約4か月の準備期間がありましたが、結果としてキャンプが開始される当日までは、ほとんど予定が何も決まらず、計画的な日本人にはとても理解しがたいキャンプがスタートしました。最初はホテルスタッフも変更、変更の連続でとても苦労させられました。しかし、日が経つにつれてそんなチームの行動が当たり前のように感じられるようになり「じゃ、また変更があったら教えて下さい」というように臨機応変に対応ができるようになりました。そんなスタッフの対応を見て、クロアチアチームの皆が「十日町の人々は日本で一番暖かい人々の集まりだ」といつも口々に言っていました。キャンプが終了して感じたことは、選手にベストな状態を提供するためのチーム事務局の暖かさや気配りが大きかったからこその要望や変更であったということです。
 無事キャンプが終了してからのクロアチア事務局は、私たちが提供した以上の気の使い方やサービスを与えてくれ、なんだかこちらが恥ずかしくなる思いでした。クロアチアチームがいつも言っていたのは、「日本人は十日町や当間高原リゾート ベルナティオを知らない人が沢山いるだろうけど、クロアチアの国の人々は日本と言えば『十日町 ベルナティオ』と答えるよ」と……。

※川崎幸樹氏は現在、都内にて日本初のクロアチアレストラン「Dobro(ドブロ)」を経営されています。
 Dobro 東京都中央区京橋2-6-14 日立第6ビル1F TEL. 03-5250-2055
 URL http://www.dobro.co.jp/


お別れに際し、シュケルキャプテンから記念品を受ける滝沢前市長

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 私は日本での通訳やジャーナリストの仕事を通して、多くの人々や友人にめぐり合い知り合う機会を作ってくれる神様に、いつも感謝しています。
 2002年のワールドカップで、私は日本の山の中にある十日町という小さな町で、50人のクロアチアサッカー協会代表団と十日町からのスタッフも加わった素敵な出来事に出会いました。このことは、スポーツがこんなにも人々を美しく結びつけることを十分に理解する、すばらしい機会のひとつでした。それは異なる文化の友情を作り、普段の生活ではおそらく決して出会うことのない人と人とを結びつけました。このキャンプは人々に遠く離れた文化を学び、私たちがどこの出身とは関係なしに、すべて同じ人間であるということを気づかせてくれ、喜びや悲しみを共に共有し、経験することができました。
 十日町で特にすばらしかったことは、市民のおもてなしでした。キャンプ推進本部の人々と同様に、期間中チームが滞在していたホテルベルナティオのスタッフは、チームや訪問者に最高の環境を提供するため最善を尽くしてくれました。ベルナティオには、単に記憶に残る快適で素敵なホテルというだけではないすばらしさがありました。
 それにもまして記憶に残り感動的だったのは、6月3日のメキシコ戦の初戦に旅立つとき、十日町や新潟県の何千もの人々が、道路でバスの中の選手たちに手を振って見送ってくれたことでした。十日町地域の子供たちや人々が、クロアチアの人々と出会うことは地域の人々にとっても貴重ですが、それはゲストである選手たちにとっても貴重な思い出であると私は確信しています。
 スポーツの勝敗というものは移り変わるものであり、私たちの人生の道のりにおける浮き沈みは、スポーツや人生においても一般的に自然なことです。しかし私たちが生きている以上、人々の心、やさしさ、友情、親切さはずっと私たちの心にあるのです。一人の友人が私に言った言葉があります“愛のみが永遠に生きる”。
 このように、十日町の人々がクロアチアのチームに表わした前向きな力や暖かさは、いずれにせよ将来、立派な熟した果実を産み出すであろうと確信しています。


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