
ワールドカップキャンプを一過性のイベントにとどめることなく、これからまちづくり、青少年育成の起点としたい。スポーツや国際交流がもたらす無限の可能性を多くの人々から感じていただきたい。そんな思いから、2002年にクロアチア代表が新潟県十日町市で行ったキャンプの記録を記念誌『Hvala Hrvatska』(ありがとうクロアチア)にまとめました。14日間のキャンプの中でも、特に印象深かった出来事・寄稿文をご紹介します。

「子どもたちに夢を与えたい」という願いから、十日町市は1998年に2002FIFAワールドカップTMの公認キャンプ地に立候補しました。
十日町市は、ヨーロッパ屈指の高級リゾート地・絹織物の世界的産地として知られるイタリア・コモ市と姉妹都市(1975年〜)の関係にあることから、当初はイタリアチームの誘致を目指しましたが、結局実現することはありませんでした。
しかし、2001年に7か国の代表団の視察を受け、9月にはスペインから「もしも、グループリーグを日本で戦う場合は、十日町市でキャンプを行いたい」という申し入れがあり、仮予約を交わすことができました。さらに2001年11月にはポーランドからも「予選を日本で行う場合は十日町市でキャンプをしたい」という連絡があり、この時点ではキャンプ実現はほぼ確定的と思われていました。
ところが・・何という運命のいたずらでしょうか。運命の12月1日・組み合わせ抽選日、仮予約をしていたスペイン、ポーランド両国が、ともに予選を日本ではなく韓国で行うことになってしまったのです。韓国プサンの抽選会場でなりゆきを見守っていた本田欣二郎市長(当時)は、そのときの心境を「奈落の底に突き落とされたようだった」と振り返っています。ファイナルドローが終わった瞬間、十日町市の誘致活動は一気に白紙の状態に戻ってしまったのです。
しかし、抽選会からわずか3日後の12月4日、スペイン、ポーランドの推薦もあり、クロアチアのサッカー協会関係者(マルコビッチ会長・スレブリッチ事務局長)がキャンプ地の当間高原リゾートベルナティオを初めて訪れ、グラウンドをはじめ各施設に非常に高い評価を与えてくれました。そして、2度目の視察となった12月8日にはキャンプ地の内定を得ることができたのです。
まさに天国から地獄、地獄から天国の誘致活動でした。しかも、運がよかったことに、1回目の視察となった4日の時点では雪が積もっていなかったためにグラウンドを見てもらえましたが、8日には一面が雪に埋もれていたのです。もしも、視察が数日遅れていたならば、一番重要なグラウンドを確認できず、キャンプは実現しなかったかもしれません。まさしく天も味方したキャンプ誘致活動でした。
※クロアチア代表は、ドイツ大会に際しても本番直前の親善試合でポーランド・スペインとテストマッチを行うなど協会間の親密なつながりがうかがえます。

ボールタッチのすべてがつぎのプレーに結びついていた。柔らかな身のこなしからのすばやいパス回し、190cm近い大男たちが目の前を疾走する。一瞬にしてディフェンダーを置き去りにする縦への突破。一本で局面を変えるスルーパス。一対一の攻防。振り抜いた足もとから矢のようにボールがネットに突き刺さる。ゴールの瞬間、客席は波を打つように静まりかえった。一呼吸をおいて拍手がわき起こる。一つひとつの技に、スタンドから漏れたのは感嘆のため息だった。
公開練習について聞かれたミルコ・ヨジッチ監督は「選手にとって、観客の拍手は、美しいメロディのようなもの」と笑っていた。
ある日、小学生の一団が客席にやって来た。手作りの応援ボードを高々と掲げ、「スレットノー」と声援をおくっていた。選手も子どもたちの近くをランニングし、手を振ってくれた。母国では絶対にありえない光景だという。キャンプ期間中クロアチア代表チームは9回におよぶ公開練習を行ってくれた。「世界の技」を目の当たりにした観客は3,500人以上にものぼる。彼らはボールひとつで人々をクロアチアサポーターにしてしまった。
十日町キャンプでの最後の公開練習となった2002年6月1日には、練習終了とともに花火が打ち上がり、観客から盛大な拍手とエールが沸き上がりました。そして選手たちも、その声援に応えて、横一列に手をつなぎ、高々とその手を揚げ感謝の意を現してくれたのです。(このページのトップ写真)最後の練習が終わったとき、ヨジッチ監督は「一生忘れられないキャンプとなった。我々は十日町市民のためにも全力で戦う」という言葉を残してくれました 。




どんなに素晴らしい出会いにも、別れはやってきます。2002年6月2日、クロアチア代表が翌日のメキシコ戦に向けて旅立つ日がやってきました。別れの朝、ベルナティオ別館前で行われた壮行セレモニーには、代表を見送ろうと、市民など約300人が駆けつけました。チームを代表して、ブラトコ・マルコビッチ協会長は「市民から贈られた“どうか侍のように戦ってください”という言葉が胸に突き刺さり、一生忘れはしない。選手はクロアチアのためだけでなく、愛情をいただいた皆さんのためにも戦います。私たちは旅立ちます。しかし、この別れは本当の別れだとは思わないでほしい。ここにいる選手が将来コーチや監督になったときには、必ずや十日町に新たなチームを連れてくるでしょう。いつかまた会いましょう」という言葉を残してくれました。
また、チームからの贈り物としてサッカーボールをかたどったガラス製の記念品が、主将のシュケル選手の手から滝沢市長に贈られました。シュケル選手は「これほどクロアチアを知ろうとした町はなく、素晴らしいキャンプだった。今度は一旅行者として遊びに来たい」と述べていました。
最後に、市民らが「イデモ、フルバツカ!!」(がんばれクロアチア)とクロアチア語で激励する中を、一人ずつバスへと乗り込みキャンプ地ベルナティオを出発したのです。
別れを惜しむ多くの市民とともに、ホテルのスタッフや関係者が手を取り、感動で胸をつまらせている姿が見られました。.
そして、バスの中の選手たちも十日町市を走り抜ける際、市民らの真の友情と純粋な心に感動して目を潤ませていたといいます。道路の両脇には、クロアチア国旗を手にした親子連れ、年配の方々、沿道のお店の人たちなど数千人の市民が道路に出てきて選手に惜別と激励の気持ちを込めて手を振りました。
バスは風のように走り抜け、夢と感動の14日間は終わりました。キャンプ誘致に名乗りを上げて以来1,098日目の出来事でした。

各国のキャンプ視察から始まり、ワールドカップ終了までの間は展開が日々変わる、とても目まぐるしい1年でした。私は選手の滞在する「当間高原リゾート ベルナティオ」のキャンプ責任者としてキャンプ中は選手たちと毎日寝起きを共にしてきました。おかげで5kgのダイエットに成功しました。
クロアチアのキャンプが決定し、約4か月の準備期間がありましたが、結果としてキャンプが開始される当日までは、ほとんど予定が何も決まらず、計画的な日本人にはとても理解しがたいキャンプがスタートしました。最初はホテルスタッフも変更、変更の連続でとても苦労させられました。しかし、日が経つにつれてそんなチームの行動が当たり前のように感じられるようになり「じゃ、また変更があったら教えて下さい」というように臨機応変に対応ができるようになりました。そんなスタッフの対応を見て、クロアチアチームの皆が「十日町の人々は日本で一番暖かい人々の集まりだ」といつも口々に言っていました。キャンプが終了して感じたことは、選手にベストな状態を提供するためのチーム事務局の暖かさや気配りが大きかったからこその要望や変更であったということです。
無事キャンプが終了してからのクロアチア事務局は、私たちが提供した以上の気の使い方やサービスを与えてくれ、なんだかこちらが恥ずかしくなる思いでした。クロアチアチームがいつも言っていたのは、「日本人は十日町や当間高原リゾート ベルナティオを知らない人が沢山いるだろうけど、クロアチアの国の人々は日本と言えば『十日町 ベルナティオ』と答えるよ」と……。
※川崎幸樹氏は現在、都内にて日本初のクロアチアレストラン「Dobro(ドブロ)」を経営されています。
Dobro 東京都中央区京橋2-6-14 日立第6ビル1F TEL. 03-5250-2055
URL http://www.dobro.co.jp/

私は日本での通訳やジャーナリストの仕事を通して、多くの人々や友人にめぐり合い知り合う機会を作ってくれる神様に、いつも感謝しています。
2002年のワールドカップで、私は日本の山の中にある十日町という小さな町で、50人のクロアチアサッカー協会代表団と十日町からのスタッフも加わった素敵な出来事に出会いました。このことは、スポーツがこんなにも人々を美しく結びつけることを十分に理解する、すばらしい機会のひとつでした。それは異なる文化の友情を作り、普段の生活ではおそらく決して出会うことのない人と人とを結びつけました。このキャンプは人々に遠く離れた文化を学び、私たちがどこの出身とは関係なしに、すべて同じ人間であるということを気づかせてくれ、喜びや悲しみを共に共有し、経験することができました。
十日町で特にすばらしかったことは、市民のおもてなしでした。キャンプ推進本部の人々と同様に、期間中チームが滞在していたホテルベルナティオのスタッフは、チームや訪問者に最高の環境を提供するため最善を尽くしてくれました。ベルナティオには、単に記憶に残る快適で素敵なホテルというだけではないすばらしさがありました。
それにもまして記憶に残り感動的だったのは、6月3日のメキシコ戦の初戦に旅立つとき、十日町や新潟県の何千もの人々が、道路でバスの中の選手たちに手を振って見送ってくれたことでした。十日町地域の子供たちや人々が、クロアチアの人々と出会うことは地域の人々にとっても貴重ですが、それはゲストである選手たちにとっても貴重な思い出であると私は確信しています。
スポーツの勝敗というものは移り変わるものであり、私たちの人生の道のりにおける浮き沈みは、スポーツや人生においても一般的に自然なことです。しかし私たちが生きている以上、人々の心、やさしさ、友情、親切さはずっと私たちの心にあるのです。一人の友人が私に言った言葉があります“愛のみが永遠に生きる”。
このように、十日町の人々がクロアチアのチームに表わした前向きな力や暖かさは、いずれにせよ将来、立派な熟した果実を産み出すであろうと確信しています。

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